2007年09月17日

神戸での「日本と孫文」展に行った

展示会場入り口 開催は9月23日までだというので、あわてて2連休最後の日の午後に、兵庫近代美術館ギャラリーの「日本と孫文 日中の心の架け橋」展に出かけてきました。
 せっかく神戸にあるのに、まだ足を運べていない移情閣こと「孫文記念館」全面協力の、入場無料の展示です。現在神戸で開催されている、第9回世界華商大会の協賛企画イベントでもあります。

 どうでもいいのですが、本当にこの、某有名建築家がやたら多用するコンクリート打ちっ放しって、殺風景で暗くて独特の臭いがあるし、好きになれない…。同美術館のギャラリーは特設展・常設展の棟と反対側にあり、しかも3階に上がらなければ入り口にたどり着けず、解りにくいし不便です。まったくもう…。他の建築家にオーソドックスに作ってもらいたかった。

 パネル展示だけかと思いきや、2種類の資料ビデオが常時上映され、孫文の講演における生声まで聞けたりして、結構収穫がありました。
 もちろん、展示物には「大道之行也天下為公」(=“大道”(正道、常理)が正しく実践された時、天下は人々が共有するものとなる。「礼記」にある言葉らしい)「博愛」「革命」などの、孫文自筆の書があった。
 様々な書体を使い分けておられました。船上や立ち話の時にさらさらっと書かれたものもあるみたいだし…。
執務室にて
 易先生の背後にも、孫文先生がちゃんとおられます〜。

 孫文と並ぶ革命家の黄興の書には、「江湖」や「侠情」という、中国武侠小説・映画では御馴染みの言葉がちりばめられていましたよ。
 
 また孫文が唱えた「三民主義」の各種の書物、孫文がロンドンで清国公使館に拉致監禁されて危機一髪!救出された時のエピソードをまとめた「倫敦被難記」の英語・中国語・日本語本も展示されていました。
 この一件で、若き日の孫文(当時は孫逸仙と表記されている)は世界的に有名な革命家となるのでした。やはり、英語・中国語・日本語と3ヶ国語に訳されることって、大事なのね…。
 
 青いチーパオ旗袍を着せられた孫文の立像や、日本で宋慶齢と結婚した時に彼女の母親が送り届けたという婚礼衣装も展示されていました。…やはりトニーと同じ広東人、男性としては小柄だったんだー(^_^;)。

 宋慶齢との結婚誓約書らしきものも展示してありました。あの時代の東アジアにしては、とってもモダンな誓約文が書かれていて、何だか感銘を受けた。49歳の孫文が、22歳の海外帰国子女だった彼女と結婚するのにいかに心を砕いたのか、解るような気がして。
 まあ孫文には若くして親同士が決めたので結婚し、自分の母親と3人の子どもの世話を任せきりにした妻・盧慕貞もいた(一族の写真で初めてその盧慕貞の姿を見た…確かに野暮ったい…)んだけど、宋慶齢と結婚したい一心の孫文は盧慕貞を日本に呼び寄せてまで正式に離婚し、彼女はマカオに戻って貧困にあえぐ人々を助け、そのままマカオで生涯を終えたんだよねえ…。

 資料ビデオには和歌山の「知の巨人」南方熊楠との大英博物館東方図書室での出会いや交流が描かれているシーンもあり、実に興味深かった。この頃の熊楠は大英博物館で、図書目録編纂係を務めていたのね。孫文とは1歳違いだったんだ…。
 汗っかきの30歳の熊楠、孫文にはどんな風に見えていたんだろう。

 その後、孫文は英国を去るのだけど、熊楠の日記帳に惜別の辞として「海外逢知音 南方学長属書 香山孫文拝言(海外で自分の心をよく解ってくれる親友と逢った)」という言葉を書き残したという。

 南方学長とは熊楠への尊称だとか。そして知音とは、琴の名人伯牙が、自分の弾く琴をよく理解してくれていた親友の死後、琴の弦を切ってしまったという「列子(湯問)」の故事から来ているそうで。

 やっぱり「男の友情、やましいものは何もない!」はいいな〜〜(腐女子的思想)。

 そして日本に亡命中の1901年に、孫文は和歌山の弟宅に居候していた熊楠を訪ね、南方一族に温かいもてなしを受けたそう。

 孫文に心酔し、彼の苦闘を助けよう、中国革命を成功させてこそ日本もよくなると信じた日本人は、大勢いた。日本政府が一介の亡命者・孫文の入国を許そうとしなかった時に、神戸の川崎造船所ドックから密かに密入国させた人々もいたくらい(おーい…)。
 さらに、中国大陸での武昌起義(蜂起)では、広東省の恵州で命を落とした日本人突撃隊長(山崎良政)さえいたのね…。その弟純三郎は、孫文の臨終にさえ立ち会ったという側近だったのだ。

 孫文は「日本是予之第二故郷―無日本即無中国、無中国亦無日本」とも考えていたというのに…。

 その孫文の死、1925年からたったの13年で。
 1938年、「ラスト、コーション/色、戒」の易先生は汪精衛政権の特務機関指導者として、香港の愛国大学生から命を狙われる。祖国を侵略し占領しようとする敵国の日本軍協力者、売国奴として。
 1940年、上海で、易先生と王佳芝は逢瀬を重ねることになる。拷問と暗殺謀殺、蒋介石の操る組織や日本関東軍との攻防の日々にすさんだ心は、愛欲の世界にどんな救いを求めるのか…。

 青年時代の易先生も、おそらくは孫文に憧れ、その思想に共鳴して希望を持って日本に留学し、畳間の座布団の上であぐらさえかけるようになった、はずなのに…。

 なんてことをしみじみと考えながら、図録を売ってなかったもので、ミュージアムショップで思わず陳舜臣の「孫文」上下巻(中公文庫)を買って散財してしまったのであった…。読まなきゃいけないものは他にもいっぱいあるのにぃぃ。

 あ、23日(祝・日)午後2時には、兵庫県立美術館「アトリエ」で、この催しにちなんだコンサート「花好月圓 李浩麗withチャイニーズアンサンブル華」が開かれます。「蘇州夜曲」「茉莉花」「龍船」などの中華歌曲や「リベルタンゴ」、「島唄」などが演奏されます。
 前売り3000円、当日3500円。お近くの方は、ぜひどうぞ。
posted by nancix at 23:55 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日々のこと。
この記事へのコメント
Nancixさん初めまして。
孫文の展示があるんですね。興味深いです
中国人が最も尊敬するという孫文氏。意外にも毛沢東は2番目と聞きました。
日本名は中山樵(なかやま きこり)だそうですね。中国にある孫文の名の付く土地や通り名は、最近どんどん中山に変わっているとか。そういえば、どこにでもある中山路…。台湾にもありますよね。
しかし何故、孫文ではなく中山に変えるのが流行っているのか理解できません。日本名なんて感情的に抵抗ないんでしょうか。
あと‥客家の出なんですね!旅行パンフの「客家土楼オプショナルツアー」の欄にサラッと書かれていてビックリしました。
Posted by ミニーモンキー at 2007年09月18日 07:34
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