米国ビバリーヒルズで結腸癌と7年闘い続けてきて、ついに6月29日に力尽き、自宅で亡くなられたそうだ。
……ガンを発病していたことですら、全然知らなかった……。香港以上に冷え込んだままの台湾映画界で、資金集めに苦労しつつ、じっくりと次作のプランを練っているんだろうとばかり思ってたのに。
享年59歳。nancixの亡き母がガンで亡くなったのと、同じ年齢じゃないか…。
映画監督としては脂が乗り、ますます円熟味を増した人物描写で楽しませてくれるはずの年齢なのに。
思えばチョウ・ユンファという、アクションもハートフルな恋愛もイメージかなぐり捨ててのコメディもやってのける稀有な男優との巡り会いをきっかけに、香港を中心とするアジア映画に興味を引かれた頃、羅針盤にできたのはたった2冊の書籍だけだった。
「電影ニューシネマ イメージフォーラムNo.103」(88年、ダゲレオ出版)と「台湾香港新映画宣言 WAVE21」(89年、ペヨトル書房)。
どちらでもエドワード・ヤン監督は注目すべき映画人として紹介されていた。だけど4人の新人監督がオムニバスで撮影したという「光陰的故事」(82)も、クリストファー・ドイルが撮影し、シルヴィア・チャン張艾嘉が出演した長編映画第一作「海辺の一日/海灘的一天」(83)も、「恐怖分子」(86)も、当時は上映会もなく、見る機会に恵まれなくて、ただただ本の簡単な紹介で、どんなシーンがどのように展開されるのか、想像してばかりいたものだ。ほうちゃんことホウ・シャオシエン侯孝賢監督の作品は、すでに東京じゃ映画祭まで開かれて、一気見もできてたのになあ。
そして第4回東京国際映画祭インターナショナル・コンペティションで、あの衝撃作「クーリンチェ少年殺人事件/[牛古]嶺街殺人事件」(91)に巡り会う。チャン・チェン張震のデビュー作でもあるこの作品、長いながい、重いテーマの映画なのだが、決して飽きなかった。最後まで息を詰めるようにして見届けた。
少年のあどけなさや初々しさと、危なっかしい、思い詰めがちな生真面目さを併せ持ったチャン・チェン。その実父でありベテラン俳優でもあるチャン・クォチュー張國柱(ジェリー・イェン出演の「「白色巨塔」 にも出てる)が見せた、大人の苦悩と葛藤。能面のような色白、静謐なクールフェイスが日本のカワイコちゃんアイドルには決して出せない少女の妖しさをかもし出していた、ヒロイン。
ただ途中で日本のヤクザ映画か歌舞伎の"だんまり"か?という大立ち回りが、暗闇のなかで展開するので、いやそんな凄惨な抗争描写でなく、少年犯罪の経緯に早く話を戻してよ、と思ったのも確かである。何だかその後、4時間バージョンも、ビデオだっけ?で発売されて、さすがにこっちには手が出せなかったっけ。
「恋する惑星/重慶森林」を追いかけフラレまくった94年、nancixは初めて香港から台湾に足を伸ばし、西門町に宿を取って台湾・香港映画を見まくった。そのなかの1本が「エドワード・ヤンの恋愛時代/獨立時代」(94)だったんである。
Confucian Confusion=儒者の困惑、なんて韻を踏んだ英語題がついていて、アイロニーあふれる漢字字幕が随時挿入されるのだけど、要するに"ギョーカイ人"とその周辺の男女の恋愛群像劇であって、日本の舞台劇にアレンジしたって充分受ける内容。
まあ日本人女性にはあまり見られないほどやいのやいのと叫びまくるボーイッシュな女社長と、その彼女に、愛されキャラでソツの無いお嬢さんぶりをなじられ困惑する"台湾のオードリー・ヘップバーン"チェン・シャンチー陳湘[王其]、結婚しても苦労させられるだけとはなっから解るような、殴りたいほどだらしなくロクでもないトホホ男どもの右往左往、を描いていて。
nancixにとっては明石屋さんまと大竹しのぶなんかでリメイクしてもおかしくないなあ、ヒロインを巡る連中が宮本亜門のそっくりさんと、佐野史郎のそっくりさんと、大鶴義丹のそっくりさんと、松尾貴史のそっくりさんと、越前屋俵太のそっくりさんにしか見えないし、なんてふうにしか思えなかったのであった。
これを日本の映画批評家が「都市部の若者たちが感じている伝統的な価値観と現代的な実利主義との葛藤を表している」なんつー小難しい言葉を駆使して絶賛し深読みするので、これだからアジア映画への一般女性の敷居が高くなるんだわ…と痛感したりもしたのだった。
だって、常日頃トホホ男に手を焼いているOLやら自営業やらの女性が見たって、絶対苦笑いできるし女の友情についてわが身を振り返れるし、ギョーカイ人に憧れたって所詮は連中だってトホホ男に過ぎないんだよ、と教訓を得られるし……ってな気安いアプローチで、なぜ誰も紹介してくれなかったんだろう。
台湾くんだりまでわざわざ出かけていってトレンディー恋愛群像劇を見る必要があったのだろうか、などと首をひねりながら、まあいいや次、とばかりに「アンディ・ラウの天と地/天與地」(94)上映館に移り、「しまったぁぁぁ、北京語吹き替えだぁぁぁ」と内心泣きながら映画館内を舞台にしたアンディ兄貴の派手なワイヤーアクションに口を開けて見とれ、何十回めかの(やっぱりどーしてもこーしてもこういう悲劇的な結末にしないとアンディ兄貴は気がすまんのかーーーい!)との内心の叫びを上げながら堪能したことであったよ。
その年の秋、第7回東京国際映画祭・京都大会で、いちはやく「エドワード・ヤンの恋愛時代/獨立時代」が上映され、おなじみ宇田川幸洋せんせとエドワード・ヤンが上映後のティーチ・インに現れたのだった。
「少年時代から、コミックを読むのも描くのも好きだった」と話していたエドワード・ヤン。確か映画製作のかたわら、コミック雑誌の編集長を務めていた時期があったはずだ。当時、開港したばかりだった関西国際空港に降り立った時、後の便で到着するはずの当時の妻でベテラン歌手のツァイ・チン蔡琴(トニー・レオンとは「地下情」で共演、「インファナル・アフェア」シリーズの挿入歌「被遺忘的時光」の歌い手)やスタッフを待つ間に、空港案内所で「宝塚市立手塚治虫記念館には車で何時間ぐらいで行けるのか?」と聞いていたというほどだ。
彼の個人プロダクションは「アトム・フィルム/原子電影」と名付けられ、「エドワード・ヤンの恋愛時代」に登場するある人物は「アトムだいすき!」と日本語でプリントされたTシャツを着ていたりもした。「関空からは往復4時間はかかります」と案内嬢に言われ、その日の見学はあきらめたとのことだったが、その後宝塚に行ける機会はあったのだろうか。1995年8月には、蔡琴とも離婚したし……。
するってぇと、エドワード・ヤン監督が神戸100年映画祭のゲストとして来神してくれたのは、 「カップルズ/麻将」(96)の完成後のことだったんだろうか。「さらば、わが愛〜覇王別姫」の日本公開前だったチェン・カイコー陳凱歌監督、長蛇の列ができた「ブエノスアイレス」撮影中だったクリストファー・ドイル杜可風に比べると地味な扱いだったけど、地元映画サークル所属の映画祭スタッフと、テルちゃんこと暉峻創三せんせとの計らいで、地元での映画祭の告知に少しだけ賛助できたnancixも、夜の古めかしいパブでの歓談会に参加させてもらったと記憶しているんだけど。それともあれはメイベル・チャン張婉[女亭]&アレックス・ロー羅啓鋭が来神した99年のことだったっけ? エドワード・ヤンとは、テルちゃんが「ちょっと飲みに行きますか」と数人だけを誘ってくれた時に同席したのかなあ。
寡黙で、だけど店内に流れるジャズに耳を傾けながら、気だるい雰囲気に身を浸しているようなエドワード・ヤンだった。こちらも決して雄弁ではなくトツトツとしゃべるテルちゃん、英語のボキャブラリーに不自由なnancixでは、わっと盛り上がるまではいかなかったし、いくら手塚漫画の話をしたくても台湾題名と日本題名の対照表でもなければ会話にできないジレンマがあったりした。覚えているのは「音楽でいちばん好きなのはどんなものですか?」とnancixが聞くと「……ビートルズ」と答えたのが、やや意外だったことぐらいだ。てっきりビートルズ以前の、いわゆるオールディーズなのかと思っていたのだが…。
その後、エドワード・ヤンは「スワロウ・テイル」「リング」のプロデューサー河井真也氏や岩井俊二監督らと交流を深め、21世紀の幕開けを前に、Y2Kプロジェクトなる映画製作プロジェクトに参加した。
Y2K問題=2000年問題は、グレゴリオ暦2000年になるとコンピュータが誤作動する可能性があるとされた問題だったけど、これは香港からスタンリー・クァン關錦鵬、台湾からエドワード・ヤン、日本から岩井俊二という作家性の強い監督を集めて、当初はオムニバス映画を作ろうという動きだった。後にはテーマを一つ決めて、それぞれに長編を撮ろうという形式に変わり、エドワード・ヤンはイッセー尾形を起用し「ヤンヤン 夏の思い出/一 一」を完成、第53回カンヌ映画祭に出品する。スタンリー・クワンは桃井かおり、大沢たかおをミッシェル・リー李嘉欣とスー・チー舒淇に絡めて「異邦人たち/有時跳舞」(01)を完成させた。
岩井俊二だけはとうとうこのプロジェクト枠内で作品を完成させることなく、我々を「日本代表だけ"誤作動"するなんて…」と心底ガッカリさせたのだが、本人の言い分によるといまをときめく蒼井優も出演した「リリイ・シュシュのすべて」(01)は、エドワード・ヤンらとのミーティングに刺激を受けて着想したストーリーの一つだったという。
こうした日本映画人とのコラボレーションは、エドワード・ヤンにとって果たしてプラスだったのだろうか。日本で「不夜城」(98)を監督した香港のリー・チーガイ李志毅は、その後なぜか何年も(「マジック・キッチン/魔幻厨房」(04)まで)監督を手がける機会に恵まれなかった。「ヤンヤン 夏の思い出」は第53回カンヌ映画祭で監督賞に輝き、ロサンゼルス映画評論家協会やニューヨーク批評家協会で外国語映画賞も獲得したものの、台湾では当時の映画配給の在り方に疑問を呈した監督の決断で、ついに台湾の一般館で上映されることがなかったと聞く。それは、日本・台湾合作であることも一つの火種になってはいなかったんだろうか。全くの私事なんだけど、nancixの職場の以前の部署に、エドワード・ヤン関西人バージョンとでも言いたいほどそっくりな男性がいた。年齢は違うけど。細身で眼鏡をかけて、笑うと目が糸のように細くなるのも顔の輪郭もそっくりだ。その男性がようやく結婚したのも束の間、ガンを患い大手術を受け、同僚の一人としては大いに心配させられたものだ。ええ、彼は職場復帰を遂げ、今でも元気に飛びまわっている。彼を見るたび(いくら台湾映画界が大不況たって、アン・リー李安はもちろんのこと、ほうちゃんこと侯孝賢もツァイ・ミンリャン蔡明亮も活路を切り開いて活躍しているのに、エドワード・ヤンはどうしてるのかなあ、近況をさっぱり聞かないなあ。副業でも持ってて、会社を設立して、そっちに忙しいのかなあ)とは思っていたのだ…。
まさか、ビバリーヒルズに居を移していたとは。
若い頃に南カリフォルニア大学USCで映画を学んだ縁での、療養目的だったんだろうか。
まさか、闘病生活を送っていたとは。
2004年には、長年準備してきた、ジャッキー・チェン成龍プロデュースの時代劇アニメ「追風」を発表しようと心血を注いでいたらしい。

資金面の問題で完成させることができず、無念だっただろうなあ…。
また50年余の台湾映画旧作映画フィルムの劣化を恐れて、デジタルアーカイブ化を推進しようと、ほうちゃんと共に業界の各方面に働きかけていたらしい。
せめてもの慰めは、決して孤独ではなく、94年に再再婚したという元ピアニストの夫人(エドワードよりも18歳下!)ポン・タイリー彭鎧立や、2000年生まれの息子と、その妹に付き添われて、無味乾燥な病院ではなく自宅で亡くなったことか…。
米国で結婚したものの、映画監督を目指して台湾に戻る際に離婚していたエドワード・ヤン。2番目の妻だった蔡琴は、中国でのコンサートツアーを終えて台湾に戻り、我が家のテレビをつけて初めて、かつての夫の死を知ったという。コメントを求める各メディアの留守電に「こんな時に、何を言えっていうの…」と途方にくれ、全メディア宛ての手紙を公開した。
エドワード・ヤンに見い出され、人気DJからテレビドラマ、映画へと女優に転じたシルヴィア・チャン張艾嘉(「海灘的一天」「過ぎゆく時のなかで/阿朗的故事」「君のいた永遠(とき)」など)は、メディアからの取材電話中、何度も嗚咽して「彼が安らかでありますように」と呟いたという。
公私共に交流のあったシルヴィアは、1年ほど前に香港でエドワード・ヤン監督夫妻に会った。互いにハグし合い、「身体の調子が悪いそうだけど、注意してね」と言葉をかけたそうだ。まさか、それが最後になろうとは……。
「エドワード・ヤンは我々の時代の1、2に数えられる最も才気ある映画監督です。(1981年)当時、彼は米国での優遇を約束された仕事(7年働いたというコンピューター技師か)を投げ出して台湾に戻り、映画を撮影しました。若くはありませんでしたが、他の誰よりも情熱がありました。彼は海外で学び、そのときの生活の背景と経験を彼独自の映画への観点に生かし、台湾映画界内で成長した映画人とはとても異なっていました」
「彼は一般の人と異なっていて、私達がグループで遊びに出かけておしゃべりに興じていても、彼だけは冷静に傍らに座っていました。その顔に軽く微笑を浮かべ、でも突然一言が飛び出します。私たちを笑わせるのではなく、頭ごなしに一喝するような一言だったのです」
「私は今でもまだ(彼が亡くなったという事実を)受け入れることが難しいのです。彼が気に掛けたかどうかわかりませんが、彼は一生をかけて多くの忘れ難い作品を残しました。それだけで充分慰めになります」
と、シルヴィアは涙をこらえてコメントしたのだった。
シルヴィアの言う「冷静に傍らに座っている」エドワード・ヤン。
神戸の夜も、そんなふうに過ごしていたっけ。
今でも脳裏に浮かぶ、だけど日々ぼんやりとしていく面影を、何かに永遠に焼き付け保存する方法があればいいのに…。
トニーさん、お互い長生きしよーね…。
"過去のことはすぐ忘れることにしている"隠退したあなたを、いつか訪問して、昔話をあれこれ一方的にして「そんなことがあったかな…もう忘れた」とボソッと言う、老いたあなたを微笑みながら見つめて昔の面影を探すのが、もはやnancixの将来の目標なんだからさ…。
広東語能力、まだまだだけどさ…。




初めまして。こんにちは。何とも言えず、しみじみとしんみりとしてしましました。安らかに、エドワード。
そしてやっぱり素敵です、その目標。映画のワンシーンのよう。本当長生きしてねトニーさん(^^)。
いろんなエピソード、興味深く読ませていただきました。
まだ59歳、もっともっと作品を撮ってほしかった監督さんです。
クーリンチェは4時間版が初見ですが、ちゃんと劇場で観ました。3時間版は未見ですが、確か98年に張震人気(?)で劇場リバイバルもしたんですよね。
個人的には今、『恋愛時代』が観たくてしょうがないです。なんとかガンを克服して、新作を発表して欲しかった…。
ただただ、彼のご冥福を祈るばかりです。