1943年(民国32年、昭和18年)11月、東京で開かれた「大東亜会議」に、汪兆銘は南京国民政府代表として出席し、他のアジア諸国首脳と共に会議に参加します。42歳の丁黙邨は汪派の国民党中央政治委員会委員として、国策の制定に参加します。「日中基本条約」「中日満同盟条約」の制定、及び対英国・米国宣伝の主謀者の一人ともなったのです。
しかし、この1943年、汪兆銘は下半身の痺れに悩み、8年前の狙撃事件の時に摘出できなかった銃弾を南京第一病院で抜き出す手術を受けます。しかし1ヵ月後には突然歩行困難に陥ったのです。日本人主治医は日本での治療を勧め、44年には名古屋帝大付属病院で4時間に及ぶ手術を受けました。しかし回復することはなく、ついに11月10日に客死します。死因は35年に銃撃された古傷の悪化とも、多発性骨髄腫のせいとも言われ、中国側では日本側による謀殺説を信じる人も少なくありません。享年61歳でした。
以後は、蒋介石率いる重慶政府が中国の代表となります。日本の無条件降伏を要求し、満州・台湾・澎湖諸島などの返還を求めたカイロ会談に、中国代表として出席したのは、中華民国主席・蒋介石でした。
かつて、丁黙邨の同志であり部下だった李子群は江蘇省省長になるなど、順調な出世ぶりを見せていましたが、汪兆銘亡き後は重慶政府との和平を目指す日本側にとって、もはや李子群の利用価値はありませんでした。また周佛海の情報網には、汪政府の最後の危機の折りには、李子群が特務機関網を挙げて重慶(蒋介石)に降伏し、恭順第1号になるという計画を抱いているという重大な情報が飛び込んできました。そこで周佛海は腹心の羅君強らに命じて、李子群打倒計画に着手したというのです(「揚子江は今も流れている」より)
42年には晴気慶胤中将が北方へ転出し、李子群は日本側の最大の支持者を失います。43年9月、李子群は日本軍上海憲兵隊特高課長の岡村適三中佐に「憲兵隊と財政部税警総団の調停に加わって欲しい」と招かれ、上海ブロードウェイマンション(現在の上海大廈)での宴席に出席します。この日、李は午後の急行列車で蘇州に出向く予定でした。妻の入れ知恵で酒の勧めは断っていたという李ですが、日本軍人の妻が作ったというお茶には、礼儀上口をつけざるをえませんでした。どうやらそのお茶に毒(ふぐの毒説もあり)が仕込まれていたとみられ、李子群は列車内で大量の汗をかき、腹痛と下痢に苦しみます。蘇州の自宅に戻るや日本人高級軍医が3人も駆けつけましたが、体中に紫色の斑点が出ているのを見て「何かの中毒と見られるが手遅れで、手の施しようがない」との診断でした。2日後、彼は苦しみぬいたあげく、38歳で息絶えたのでした。
こうして、ジェスフィールド76号に集った人々は次々と非業の死を遂げていきます。肺結核を長く患いながらもここまで生きながらえた丁黙邨は、南京国民政府の人材の薄さに乗じて、1944年(民国33年、昭和19年)1月に、最高国防会談秘書長を兼任することになります。5月、浙江省の省長、省党部主任委員、省保安司令などを一手に引き受け、党と政治と軍学校での教育を一身に背負うのでした。
1945年(民国34年、昭和20年)、日本の敗色が濃厚になってくると、東条英機首相に北満州国境の牡丹江へと更迭された影佐中将に代わり特務機関の指揮を取っていた中島信一大尉と丁黙邨は、再び突撃隊を組織することを画策しました。同時に、退路を切り開こうと図り、百方手を尽くして、今では蒋介石傘下の「軍統」を率いる調査統計局長の戴笠、第三戦区総司令長官の顧祝同上将と連絡を取り、蒋介石に恭順の意を表して取りなしを乞うのです。“浙江を元来のかたちで中央に返すことを決心しました。決して共産党に奪い取っていかせません”と。
5月にはドイツが降伏し、ヨーロッパでの戦争は終結していました。8月9日には、ソ連が日ソ中立条約を破棄し、対日宣戦布告をして満州などに侵入します。
1945年8月15日。日本の無条件降伏のその日、44歳の丁黙邨はどこで、どう過ごしていたのでしょうか。
●終戦、漢奸逮捕令、そして多くの死
1945年8月下旬、蒋介石は丁黙邨を軍事委員会浙江地区の軍事委員に任命しました。丁が安堵したのも束の間、9月30日、国民党政府は全国に「漢奸逮捕令」を発します。
漢奸=日本に協力した売国奴。
同年12月までに逮捕された「漢奸」罪の容疑者は、4200人以上に及んだと言われています。うち334人が軍法会議にかけられました。彼ともう一人の「漢奸」、同郷人の先輩、汪政権の財政部長だった周佛海も逮捕され、重慶の白公館に監禁されます。丁黙邨は翌年7月に飛行機で南京に身柄を移され、老虎橋監獄に収容されました。
1946年3月17日。かつて同じ国民党軍事委員会調査統計局でそれぞれ處長を務めながら、丁黙邨と憎み合い、多くの人々を巻き込んで暗闘を続けていた戴笠は、天津から青島に寄り、美人映画スターの胡蝶(画像)を乗せて上海に行くつもりで天津の飛行場から飛行機222号に乗り組みました。ところが、同機は30分後に「急ぐのでもう青島に寄らず、南京に直接向かう」と空港に連絡します。さらに、暴風雨のため視界不良、空港への着陸が困難になり、何度も降下を試みるうちに墜落。機体は馬鞍山上で炎上し、乗っていた11人は全員死亡するという事故に見舞われたのでした。こうして「間諜王」とも呼ばれ、上海マフィア首領の杜月笙とも関係を密にし、一時は18万人の"普段着のスパイ"を擁している、日本の宮内庁にさえ部下のスパイがいると言われた戴笠は、46歳で虚しく世を去ったのでした。「多くの人々が彼を恨み、殺したがっていたのに、あっけなくも事故死するなんて、どうして信じられようか」と、事故死を伝える記事で米国の記者が万感を込めて綴ったとも言われています。
そして1946年6月、国民党軍と共産党軍は内戦を再開させます。いわゆる国共内戦です。長いながい日本との戦いの後、疲弊した大地と人々の間で、またしても起こった凄惨な戦いでした。
そのさなか、1947(昭和22年)2月8日、丁黙邨は国民政府首都高等法院で死刑を言い渡されます。
南京・老虎橋監獄で銃殺刑を執行されたのは、1947年7月5日のこと。丁黙邨は戴笠と同じ、享年46歳でした。
銃殺される寸前、彼の脳裏に、一瞬でも鄭蘋如の麗しい面影が浮かんだでしょうかーーーー?
彼の妻子は、漢奸の家族の汚名を着せられ、果たして生き延びられたのでしょうか?
翌年1948年2月28日、汪兆銘の片腕、汪政権の金庫番として財政面で活躍し、上海市長も務め、丁黙邨とは同郷で親しかった周佛海も戦犯裁判で無期懲役を言い渡され服役中、南京の牢獄で突然、原因不明の死を遂げました。毒殺ではないかと言われているそうです。享年51歳でした。戦犯裁判中、周囲の人物に責任転嫁する発言を続けた周佛海ですが、特務警察関係の直系であった丁黙邨と羅君強のことだけは、終始かばい続けたと言います。
ジェスフィールド76号に集った日中の男たちは何を欲し、何を夢見、血塗られた手で何をつかもうとしたのか…。
それを知る者も、もう残り少なくなってしまいました…。