1939年(民国28年、昭和14年)2月、丁と李の両名は、日本の大本営特務部部長で、当時は「土肥原機関」と呼ばれる特務機関を率いて絶大な権力を誇っていた土肥原賢二(追記の※1)に、蒋介石側のテロ組織"藍衣社"及び共産党地下工作組織を壊滅させる「上海特工計画」を手土産にして投降します。後になって李士群が語ったところによると、工作開始当時、日本側から渡された武器は、たったの拳銃2丁であったといいます。これでは宿敵の藍衣社はもちろん、上海に跋扈する共産党員や荒らくれ労働者、マフィアと渡り合うことができません。
さらに、2人は大本営陸軍部軍務第8課(謀略課)課長の影佐禎昭(かげさ・さだあき)大佐(追記の※2)の信任を得て「丁默邨一派の特務工作を援助すること」という訓令を、大本営参謀総長に出してもらうことになります。そして丁らが「上海におけるテロ工作活動を封じる対策の一環として」(1)上海で、租界内での抗日活動を阻止すること、ただし工部局との摩擦を避けること(2)日本側と関係のある中国人を逮捕することはできない(3)汪兆銘と日中和平運動において合流すること(4)3月分以後、毎月30万日本円の経費を出すこと、また拳銃500丁、弾丸5万発及び500キログラムの爆薬を支給すること、という要求を提出します。
これは日本側の資料では、参謀総長名でから影佐大佐から晴気慶胤(はるき・よしたね)少佐に1939年2月10日付で与えられた訓令として登場します。
晴気少佐ニ与ヘル訓令同年3月20日、ベトナムハノイ市に滞在していた汪兆銘一行が重慶側の藍衣社の特務工作員に襲撃されます。深夜、突然汪の側近、曾仲鳴夫妻の部屋のドアが叩き壊され、開いた穴から夫妻めがけて銃撃が行われました。曾仲鳴はフランス陸軍病院で死亡、妻は全治6ヶ月の重傷を負いました。
一、大本営ハ上海テロ対策ノ一環トシテ、丁黙邨一派ノ特務工作ヲ援助セントス
二、貴官ハ上海ニアツテ丁黙邨ト連絡シ、特務工作ヲ援助シ中支軍ノ行フ租界対策ニ協力スル傍ラ土肥原機関ノ残務ヲ整理スベシ、塚本誠憲兵大尉及中島信一少尉ヲ配属ス
三、特務工作ノ援助ニ当ツテハ左ノ件ヲ適宜丁黙邨ニ連絡スベシ
1、租界ニ於テ行ハレル反日策動ノ封殺ニ専念シ特ニ工務局トナルベク摩擦ヲ起サザルコト
2、日本側ニ関係ヲ有スル中国人ヲ逮捕セザルコト
3、汪兆銘ノ和平運動ニ合流スルコト
4、三月以降、月額三十万円ヲ、マタ拳銃五百挺、弾薬五万発及ビ弾薬五百屯ヲ貸与ス
汪兆銘はこの銃撃事件で、日本との和平工作を急ぐ決意を固めたとも言われています。藍衣社はさらに、汪の暗殺をも企み周辺に出没します。翌月、日本政府はハノイからの汪兆銘救出作戦を敢行します。影佐禎昭大佐と、41年には第一次近衛内閣で逓信参与官を務めた犬養健(いぬかい・たける)が、作戦準備にあたりました。
丁は、旧友の周佛海が汪兆銘に随行していることを知り、密かに連絡を取ります。周佛海は、すでに丁と李が上海での足固めをほぼ終えているのを確かめ、彼らが築いた勢力を利用しようと汪兆銘に進言したのでした。
この3月、上海特工部が日本の大本営の直属として上海のジェスフィールド76号の陳調元大将邸に設立され、丁默邨が主任に、李士群が副主任に任命されたのでした。
日本の記者が「泣く子も黙る恐怖主義者」と評し、上海の人々が「丁屠夫」と呼んで恐れ憎んだ、冷血無比の特務機関の親玉が、こうして誕生したのでした。丁の指揮下で、李士群らは蒋介石側の藍衣社のテロリストを血祭りにあげ、「中美日報」社や「大美晩報」社などの抗日・蒋介石寄りの論陣を張る新聞社を襲撃して爆破し、編集者を銃撃し、言論を統制し、抗日分子とみなされた人々を粛清し、中国人、日本人を問わず邪魔な存在は容赦なく逮捕し、拷問にかけて自白に追い込み、処刑していったのです。
陳調元大将というのは国民政府軍事参議院院長だった人物で、屋敷跡は優に2千坪あったと言われます。その2千坪の敷地の周囲には高圧電流の鉄条網が張り巡らされ、要所要所にはトーチカ、機銃座が設けられました。外見は刑務所を連想させるような構えで、また正面の鉄門はのぞき窓が一つだけ、2人では並んで入れないほど狭く造り直され、襲撃のときに大勢の敵に一気になだれ込まれないように工夫したそうです。門の内側には、大型拳銃で武装した門衛が数人、いつも警護していました。
鉄門の内側には、2つのトーチカが設けられ、銃眼から軽機関銃が不気味な銃口を覗かせていました。無線通信の鉄塔もそびえ立っていました。
新築された本館には、檻房、無電室、暗号解読室、情報室、兵器修理室などが並んでいました。もちろん、丁黙邨と李士群のそれぞれの寝室も用意されました。また独立した小別館には、上海憲兵隊本部特高課の精鋭四人が常駐していた。敷地内には小規模な兵器廠も作られ、拳銃、機銃、手榴弾などの製造と修理を行なって、武力を拡大したといいます。
丁と李がかき集めた当時の要員は、約300人。本部の50人のほか、行動隊、上海市党部・新聞関係、情報関係、通信・暗号解読班、運輸関係と任務を分けられました。
活動資金調達のため、特務員はアヘンの密売、宝石その他の密輸などにも手を染めていたと言われています。さらには、いつしか謀略特務の任務を忘れ、小金のありそうな者を誘拐して身代金をせしめる、大商店を脅して、倉庫の商品を強奪・売り飛ばす、人妻であろうが娘であろうが、相手かまわず強姦する、拒めば、無実の人間に「漢奸」の濡れ衣をきせ、逮捕して拷問する、そのあげくなぶり殺しにするなど、悪行を極めていたといいます。
これには上海マフィア組織と通じ、ゴロツキどもを手下に従えていた李士群の人脈にも原因がありました。他にも軍隊の不平分子や買収によって寝返った藍衣社のテロリストなどが、李の傘下に集まっていたのです。
李の姉さん女房にあたる葉吉卿と彼女の一族も、賭博場、ダンス・ホール、ナイト・クラブ、阿片窟などの経営にいそしみ、その膨大な収入を夫の軍資金に充てていました。犬養健氏は、ナイトクラブ「シロス」の中国人ダンサーから、葉吉卿が上海の名流と言われる社交界の夫人たちを茶会に招き、来客のなかで一番立派なダイヤの指輪をはめている若い婦人に近づき、その指輪を抜かせ、しばらくの間自分の指にはめて眺めていたが、やがて帰ろうという間際に「謝々儂」と上海の方言で礼を言ったまま、その所有権はあっさり葉吉卿に移ってしまったという逸話を聞いています。(「揚子江は今も流れている」より)。張愛玲の小説「色、戒」にも、麻雀卓上はまるで夫人たちの指輪展覧会のようだったというくだりがあったりします。
汪兆銘はかつて、「社会新聞」を用いてさんざん言論攻撃してきた丁を嫌ってはいましたが、他に特務を任せられる人材がいず、また日本側の仲立ちもあり、上海に到着した後はやむなく丁、李が築いた特務機関を全面的に接収したのでした。当時、丁默邨と李志群の特務組織はいわば、汪政権の「連れ子である息子」的存在だと皮肉った人がいたそうです。
●暗殺未遂事件の波紋
この1939年(民国28年、昭和14年)8月、汪兆銘は国民党の6要人を「ジェスフィールド76号」に秘密裏に召集します。いわゆる「六全大会」です。このとき、38歳の丁黙邨は党の中央委員になれるよう、汪から推薦を受けます。この頃、丁らが率いる特工隊の隊員は、上海だけで2000人を超えると言われていました。
日中の血を引く悲劇の美女・鄭蘋如が加担した、丁黙邨暗殺未遂事件は、そんな矢先に起こったのでした。
その日の夜、日中の同志での合同年忘れ会を企画し、丁黙邨を宴席に招いていた犬養健は、急ぎ足に会場に入ってきて申し訳のような短い握手を同志らと交わし、すぐに廊下にある電話にかかり、続けざまに6ヶ所へ電話する丁黙邨を目撃しています。
彼はバツの悪そうな薄笑いを見せながら、上司である周佛海に小声で遅参の理由を説明し、影佐大佐の見舞いの言葉に「私の不注意でご迷惑をかけました。しかし鄭蘋如は1週間で捕まりますよ」と見得を切ったのでした。そして幾度目かの電話に呼び出された彼は「大体わかりました。あと3日もあれば捕まります」と言ったそうです。(「揚子江は今も流れている」中公文庫より)
愛した鄭蘋如の裏切りと、危うく殺されかかったショックは、彼にとって何ほどのこともなかったのでしょうか?
それとも、一時の興奮状態から醒めると、彼は自分の中の何かが死んだことを思い知ったでしょうか?
この事件後、丁は命だけは助かったものの、特務機関のボスとしての威信が大いに失墜してしまいました。
宿敵の李子群とその一派は、これ幸いと井戸端会議に「裏ネタ」を提供して噂を撒き散らし、上海中の新聞にゴシップを流し、丁黙邨を笑い者にしようと計りました。
丁と李はそれまで上海市の「警政部長」(警察部長)の座を争っていたのですが、最終的にその座についたのは李子群でした。丁は完全に「76号」から排除されるのです。
李はさらに、汪兆銘夫人の陳璧君のもとへ足しげく通い、言葉巧みに取り入って行きました。そして首尾よく、汪兆銘政権が日本軍の軍事力を背景に取り組んだ江蘇、浙江省など長江下流域農村地帯の治安確保活動(実質的には粛清・弾圧活動)を行う清郷委員会の秘書長(清郷督察公署主任とも)に就任し、"清郷工作"の実権を握ることになります。このことは、出し抜かれた上司・周佛海の怒りを買います。また李子群が清郷工作対象区域の糧食、綿花などの戦略物資の管理権を掌握しようとしたことも、日本の現地軍・商人などとの対立を激化させました。
1940年(民国29年、昭和15年)初頭、日本軍は「青島会談」を開き、丁黙邨は「遷都準備委員会」の委員に推薦されます。この年の3月、汪兆銘は南京国民政府を樹立し、汪が政府主席代理・行政院長・軍事委員会委員長などを兼任しました。主席にはいつか、蒋介石を迎えるという名目でした。示し合わせていた日本政府は、早速この政府を中国の代表として承認します。また日本ではこの年の7月、第二次近衛内閣が誕生し「大東亜共栄圏」構想が発表されています。
丁黙邨は1941年(民国30年、昭和16年)2月、汪兆銘と日本の「東亜連盟中国総会」の「社会福利委員会」主任委員になります。その頃、哀れにも鄭蘋如は銃殺されていたわけですが…。
この年の12月8日、東条英機内閣と軍部に牛耳られた日本は真珠湾攻撃を敢行し、米国、英国、フランス、オランダなどの連合国をも相手取った太平洋戦争に突入します。
翌年、丁黙邨は「年頭所感」として文章を発表します。そのなかで彼は、「東亜会戦の勝利こそが、東アジア民族の“解放”に結びつくのだ」と主張します。同時に、日本軍の軍功をひけらかし「軍事力を整えて建国し、軍事訓練を増強し、日本軍と肩を並べて作戦に当たり『大東亜共栄圏』を実現しよう」と鼓舞したのでした。
しかし、上海の民衆は決して丁黙邨らを支持してはいませんでした。暗殺されたり、突然ジェスフィールド76号に連行され闇に葬られていった親兄弟、友人たちの記憶がある限り、恐怖と憎悪はあっても決して共感を得られはしなかったのです。
まだ続く。
(※1)土肥原賢二(どひはら・けんじ)=岡山出身。張作霖爆殺事件や満州国皇帝・溥儀の天津脱出に関わり、溥儀を首領として満州国を創立する工作の中心的な働きをした人物。中国語に堪能で、北京語だけでなく方言もいくつか操れたといいます。また中国勤務が長かったため人脈も広く、「帝国陸軍きっての中国通」と呼ばれたのですが、東京裁判で問われたのは「中国侵略の罪」でした。欧米には皮肉を込めて「アラビアのローレンス」ならぬ「極東のローレンス」「満州のローレンス」なんて呼ばれていたとも。中国に最も憎まれた悪魔の一人でもあったそうで。本人はどんな信念や中国観を持っていたとしても、、日中どのドラマや映画でも、悪役として描かれてしまう人物。
中国大陸を離れると陸軍大将に昇進、マレー、スマトラ、ジャワ、ボルネオなどの軍を統括し、1945年には東京に戻って教育総監に任じられていました。戦後はA級戦犯として、九・一八事変に対する「侵略計画共謀罪」に問われ、巣鴨プリズンで1948年12月30日に絞首刑になりました。辞世の句は「わが事もすべて了りぬいざさらば さらばここらではい左様なら」「天かけりのぼりゆくらんわが魂は 君が代千代に護るなるべし」。
(※2)影佐禎昭(かげさ・さだあき)=丁默邨らを援助しジェスフィールド76号設立にも関わり、汪政権で軍事顧問を務めた影佐大佐は、後に東条英機首相に「影佐は中国に対して寛大すぎる」と判断され、北満州国境に左遷させられてしまう。さらに昭和18年、行けば戦死間違いなしと言われていた激戦下のパプアニューギニア・ラバウルの師団長に任命され、現地で終戦を迎え、武装解除されて朝から晩まで真っ黒になって鍬をふるうことになる。ようやく帰国・復員できたのは、1946年(昭和21年)5月のことだった。しかし彼は中国から(当然ながら)戦犯指名を受け、なおかつ長期に渡って患って来た肺結核が悪化し、2年後の1948年9月に55歳で逝去してしまったそうです。ちなみに自民党総裁選に出馬した谷垣禎一の、母方の祖父が影佐禎昭だとか。名前に1文字もらったんですね。