1928年、蒋介石はついに中国全土を制圧します。南京を首都とする「国民党政府」の発足を正式に宣言し、今後は言論を制圧して、共産党員を次々と逮捕することになるのです。
1930年(民国19年、昭和5年)、国民党中央組織部調査科は特務機関となり、師範学校出身の丁默邨は上海に派遣されて「民党中学」の校長という公式の身分を得ます。鄭蘋如が1932年頃に通った中学(民光中学、もしくは明光中学とも)が、この丁校長のいた中学なのでしょうか。
10代前半の鄭蘋如、29歳〜31歳ぐらいの丁默邨。

やばいです。好色だったといわれる丁が教え子をすでに見初めていたとしたら、ロリコンか? いやその。
当時の丁默邨は直属の情報班を率いて、上海の文化界で情報収集に努めていました。彼は同志でありライバルでもある4歳下の李士群や、唐恵民(瑞民)らと共に新光書局という出版社を設立、「社会新聞」という発行物を合同編集、共産党党員のプライバシーを暴いたり、蒋介石の政敵となった汪兆銘を攻撃したりしていたのでした。この時期にさんざん悩まされたため、汪兆銘自身は後々まで丁黙邨を嫌っていたと言われています。
●相棒・李士群はマフィアの…

1907年浙江省生まれの李士群は、故郷の私塾を経て日本人が上海に設けた東亞同文書院で学び、上海大学に転入し、その間の生活を資産家令嬢だった年上女房の葉吉卿に支えてもらっていました。共産党員になるとモスクワに留学((「揚子江は今も流れている」によるとウラジオストックの共産大学、「シャンハイ伝説」伴野朗著によるとウラジオストックの東方大学)し、ソ連の特殊警察学校にも学びました。上海に戻ると「蜀聞通訊社」の記者として働きながら、共産党の地下活動に加わります。しかしまもなく逮捕されてしまいます。そのまま国民党政府に引き渡されるのが怖くて、彼は妻を通じて青幇(上海マフィア組織)の有力者・楊虎に依頼し、保釈してもらったのでした。後に彼はその人物の食客となるのです。
そして1932年、李士群は再び国民党の「中央組織部調査科(中統)」に逮捕され、転向を余儀なくされたのでした。そして彼は「中統」の上海区直属情報員となり、同じ情報員の丁默邨らと知り合うのでした。
こうして李士群は国民党の組織「中統」に属していながら、丁や唐恵民と異なり、依然として共産党の地下組織と連絡を取り合っていました。「中統」に属するのは便宜上で、一時的なことだと共産党組織には伝えていたのです。つまりは、二股。
当時、唐恵民が親族の青年に漏らした言葉によると「丁黙邨の気性はせっかちで、心は狭くて、ややもすれば官僚主義的な構えがある。李士群は比較的、狡猾だ。うわべは温和で善良、しかし了見は陰険で、手段は悪辣だ」とのことでした。
また犬養健氏は「若くて健康で、精力的で愛嬌に富み、燃えたつような野心を抱いて権力の座にあこがれている。わずかな隙でもあればこれを逃さず、上役の丁に取って代ろうと待ち構えている」と描写しています(「揚子江は今も流れている」)。nancixはどうしてだか、李士群には「宮廷女官 チャングムの誓い」で悪役の手先となって右往左往しているタレ目のおじさんユン・マッケ尹莫介(意地悪女官ヨンノの叔父でもある)を連想してしまうのですが、可愛らしすぎか?
●暗殺事件で明暗分かれる
1933年(民国22年、昭和8年)秋、李士群は「中統上海工作区区長の馬紹武からの干渉を嫌ったあまりに彼の暗殺に関係した」という嫌疑をかけられ、逮捕されて南京の党務調査科総部に送られます。これは共産党側の組織「紅隊」からの馬紹武暗殺指令を、李が拒めなかったことが発端だと言われています。李士群はこの暗殺任務をすぐには実行せず、逆に、この任務を丁黙邨に包み隠さず打ち明けました。2人は相談して、暗殺を実行するにはするが、李に上海の地下組織をある程度引き継がせることができるようにしようと結論を出しました。"他人の代わりに咎めを受ける"ことを決めて、「中統=CC団」に代わって馬紹武区長を暗殺する。もし共産党地下組織が追及し始めるならば、李士群は「殺してしまったのは中統の頭目で、共産党の宿敵である」と言い張り、共産党側の自分に対する信用を維持しようと決意したのです。ある晩、丁黙邨は馬紹武を誘い出し、共に酒を飲み、一方李士群は部下に、馬をその場で銃殺するように指図してひそかに身を隠したといいます。
暗殺は実行され、成功に終わりました。「中統」は急いでこの事件を調査させました。調査は「李士群と丁黙邨への嫌疑が最大である」と結論が出され、「中統」は2人を逮捕し南京に送ったのです。
丁默邨は当時情報小組の組長であり、地位が李よりも高かったために、上海市社会局局長に手を回して保釈してもらえました。しかし李の地位は低く、取り調べ中には刑具で痛めつけられたり、唐辛子入り水を無理やり飲まされたり電気ショックを受けたりの惨い拷問にかけられたといいます。妻の葉吉卿が奔走し、中央党務調査科科長にワイロを送り、嘆願してようやく釈放されたものの、南京を離れることは許されませんでした。南京で偵察員の任務を与えられ、さらに「ロシア学生招待所」副主任などの閑職に回され、李は鬱々として楽しまなかったといいます。二人の間に決定的な溝が生じたのでした。
●蒋介石側から汪兆銘側に寝返り
1934年(民国23年、昭和9年)、蒋介石は軍事委員会に「調査統計局(略して軍統、メンバーが青い上着で暗躍したため、藍衣社とも呼ばれた)」を新たに設立することを決定します。丁黙邨と同郷の先輩・周佛海も設立に参与しました。丁黙邨は陳立夫の推薦で、晴れて軍統の第3處(特検處)の處長に任命されたのでした。第3處の主な任務は、郵便物や電報を検閲し情報を収集することでした。なお第2處(軍警處)の戴笠とは犬猿の仲であり、やがて彼を見返すために、丁は蒋介石傘下の「軍統」から、敵対する汪兆銘側に寝返ることになるのです。ちなみに、鄭蘋如は、のちに「間諜王」とも呼ばれることになるこの戴笠の下について、密かに活動していたのでした。
1935年、汪兆銘は対日宥和の外交姿勢を強め、反日、反日と声高に叫ぶ世論の反発を受けます。11月には刺客から狙撃され、危うく命を取り留めました。国民党全体会議に出席し、全員での記念写真を撮ろうと勢ぞろいしたとき、カメラマンに扮した刺客が彼を狙撃したのです。護衛兵に撃たれた犯人は「漢奸を撃った」と洩らし、翌日には死亡しました。
しかしこの事件にもめげず、汪兆銘はますます態度を頑なにします。蒋介石が共産党と手を結び抗日民族統一戦線を作ったのに対抗し、対日和平を唱え、抗戦派と衝突します。その頃、長征中の毛沢東は、周恩来らと共に、共産党の実権をほぼ掌握していました。
1937年(民国26年、昭和12年)、日本では第一次近衛内閣が誕生します。若き華族首相に、民衆は無邪気な期待を寄せました。7月には盧溝橋事件をきっかけに日中戦争(当時の言い方では支那事変)が勃発しました。8月には上海で日本人将兵2人が殺害され、日本は二個師団追加派遣を閣議決定します。12月、日本軍の攻撃にさらされた上海はついに陥落、南京も12月13日に攻略されました。日本軍に破れた蒋介石は、四川省重慶に"遷都"します。この頃、国民党中央宣伝部副部長・代理部長に昇進していた周佛海は、汪兆銘に接近します。当時、周佛海は「国際的にみて、中国は諸外国から道義上の援助と精神的な同情以外、実質的な援助を受けられないだろう。同時に、中国の国力は今は日本には及ばない。だから私自身は日中戦争で勝てるとは思えない」とドライに判断し、汪兆銘にその考えを説いていました。彼の影響を受けた汪兆銘は、やがて、あくまでも日本との徹底抗戦を主張する蒋介石と完全に袂を分かち、「君為其易 我任其難(君は安易な道を行け、吾は苦難の道を行く)」と書簡を書き残し、重慶から昆明を経てベトナム・ハノイに脱出します。そして後には、蒋介石が去った南京に入るのです…。
この書簡の「易」の文字から、「色、戒」の易先生は名付けられたのか? などと、勝手にnancixは妄想したりもします。違うか。
さて抗日戦争の勃発後、李士群は指名手配され南京に潜伏していました。南京が陥落する寸前に、彼はかろうじて他の中統の同志らと共に、武漢に逃れていました。
●失脚、結核発病、失意のなかで香港へ
1938年(民国27年、昭和13年)、1月に日本の近衛内閣(第一次)は「以後、国民政府を対手とせず」という、有名な”近衛声明”を発表し、蒋介石率いる重慶政府との講和の機会を閉ざしました。そして蒋介石に代わる新たな交渉相手を求め、ちょうど日本との平和交渉の道を探っていた蒋介石の同志・汪兆銘を擁立することに結びつくわけです。
この年4月、共産党中央要員の張国涛[本来は寿/下に点4つ]が延安の共産党本部に造反して、武漢に逃げるという事件が起こります。陳立夫は丁黙邨を選び、国民党側に転向した張国涛の"接待"を命じました。丁が陳に重用されることは、第2處處長の戴笠の嫉妬を招きます。丁黙邨が国民革命軍の総司令部秘書、参議、漢口特別市政府処長、参事と順調に出世した頃、戴笠は蒋介石に向かい、丁黙邨が公金横領・着服に手を染めていると密告し、交際費を調査するように上層部に進言します。まもなく第3處は解散に追い込まれ、丁黙邨は軍事委員会少将参議官として昆明に出向させられ、実質上の謹慎処分に処せられます。この時、丁は戴笠はもちろんのこと、誣告を信じた上層部や、かばいきってくれなかった上司の陳立夫にも絶望し、恨みを抱いたことは間違いありません。また抗戦の前途を悲観してもいました。彼はこの年の夏、香港に亡命します。
この頃、すでに丁黙邨の身体は、肺結核に蝕まれていたのでした。
一方、馬区長暗殺事件以来、とうに「中統=CC団」での出世をあきらめ上層部を見限っていた李士群はこの年、国民党から「浙江・江西鉄道特別党部特務室主任」への転任を命じられていました。彼は、今回の転任を「中統」を離れるよい機会と見なし、ちゃっかりと経費と旅費を受け取ると、妻の葉吉卿に一部を送金し、彼女を郷里に逃がしました。その上で、自分は費用の余りをすべて注ぎこんで、広西省、雲南省、ベトナムのハノイを通って逃げ、香港に到着したのでした。
香港で、李士群は日本の駐香港総領事の中村豊一(とよいち)との関係に頼りますが、中村は李に利用価値を見い出せず、日本大使館書記官の清水董三に紹介します。清水書記官は乏しいながらも毎月情報費を渡してみたところ、予期以上によい材料を収集してくるので、この機敏な男・李士群を見直したといいます。
この年、上海では要人暗殺が続発していました。国民党長老の唐紹儀、上海市長、政府外交部長、軍政部長、などなど。いずれも重慶の蒋介石系特務機関、藍衣社やCC団の暗躍によるものと見られました。
日本人の特務機関の連中は上海における抗日勢力を撲滅することを企み、中国人を中心とした特工隊を組織することを決定していました。丁黙邨は密かに、日本人に取り込む相手の一人として選ばれました。使命を負って再度接触してきた李世群を通じ、丁黙邨は同年の冬に密かに香港を出て上海に赴き、影佐ら日本人と手を組むことを決めたのでした。
12月、国民党副総裁となっていた汪兆銘は、蒋介石傘下の藍衣社につけ狙われ続けていました。彼はついに重慶を脱出し昆明に飛び、雲南省政府主席と会談後、主席がチャーターした飛行機でベトナムのハノイに脱出します。そして蒋介石宛に日本側との和平交渉の必要を説き、日本側には和平の条件として日本軍の撤退を促します。しかし国民党中央委員会は、汪兆銘から党籍と職務を剥奪することを決定するのです。
続く。