当分は「色、戒(老易的故事という説もあり)」と、ピーター・チャン監督作「ウインター・ソング」と、香港・大陸で12月公開になるらしい「傷城」情報で、手一杯ですね…。くくぅ。
えー、では、トニーがさっぱり撮影に参加したと聞かないアン・リー李安監督最新作「色、戒」…そのモデルとなった史実の話題に戻ります。
お待たせしました。トニー・レオンが映画「色、戒」で演じる易先生のモデルとなった人物、丁默邨とは、どんな人物だったのか?を、何回かに分けてお伝えします。当分は画像ほとんど無し、長文覚悟!です!
やはり中国では共産党員ではなく国民党関連の人物、しかも漢奸=日本に通じた売国奴ということで、業績や肩書きはいろいろと見つかりましたが、性格や人生観、国家観に触れた資料はほとんど無く(かろうじて、出身地の湖南省常徳市が人物紹介ページを設けておられる。立派なり。)、また台湾でも蒋介石派の国民党党員を弾圧した特務機関の人物ということで、彼の人となりにまで触れたサイトはまず無いようですね。
とにかく、収集した乏しい資料によると、丁默邨とは決して組織のトップ、ナンバーワンには向かない男だったようです。
かつての同志は彼を「丁黙邨の気性はせっかちで、心は狭くて、ややもすれば官僚主義的な構えがある。」と評し、後の41年にはゾルゲ事件に連座し逮捕されることになる元白樺派作家・犬養健(いぬかい・たける)氏は、鄭蘋如事件頃の彼を次のように描写しています。
「私は随分多くの人を知ったが、この丁のような異様な容姿の持ち主にはかつて出会ったことがない。丁は五尺そこそこの背丈で、発育不全ともいうのであろうか、背丈ばかりではない、顔も手足も何もかも小さく縮こまっている。そのうえ丁には長年の痼疾になってしまった肺の病があって、絶えず低い咳をこらえていた。それに、いつも蒼白い顔いろで、寝不足の翌日のような二重瞼を腫らしていた。彼の体力が実は洋服のような堅苦しいものに堪え切れぬらしく、私の知るかぎり、ふだんはきまって楽な中国服を着ていた。平常俯きがちで、口数も自然少なく、私もついぞ丁の笑顔というものを見たことがない」いつも疲れた青白い顔つきをしていたという、こんな小男を、上海の民衆は「丁屠夫」とひそかに呼んで、恐れ憎んだというのです。
「しかし、断っておくが、それは平常の丁のことである。一旦何ものか敵対者が彼に近づいたと感じると、この丁の眠そうな二重瞼の眼はたちまちけわしく緊張する。そしていつ何時でも防禦と反撃の連鎖を起す用意にとりかかる。私はウォルト・ディズニィの製作した、アメリカの原野での小動物の危険予感の鋭い本能を撮影した映画を見た時に、すぐに丁黙邨を思い出した。この財産一つで、丁は陳立夫局長のもとに、あの悪名高い戴笠と並んで軍人委員会調査統計局(秘密警察)の第三処長になり、少将の待遇を与えられて来たのである」(「揚子江は今も流れている」中公文庫より)

…トニー〜〜〜。一体どんな役作りをする気なんですかぁぁぁぁぁぁ?
確かに、中国のグォ・ヨウ葛優(「さらば、わが愛〜覇王別姫」の程蝶衣の最初のパトロン役など)の方がこの役には似合いそうですが、葛優の身長が高すぎる…。
まあ、「色、戒」の易先生は、丁默邨だけでなく、張愛玲が愛したもう一人の漢奸既婚男・胡蘭成の面影も混ざってますから…。
人生において味わう多くの挫折をバネにして大成する歴史的人物も多いものですが、丁默邨の場合、人生における大小の挫折は心を狭め、他人を疑わせ、パワーゲームにふけり出世欲を高め、たとえ他人を陥れてでも、より要領よく世の中を渡ろうと決意させるバネにしか、ならなかった様子で…。
確かに両手はたっぷりと血塗られ、「泣く子も黙る恐怖主義者」と評され、人民に「丁屠夫」と呼んで恐れ憎まれた特務機関の親玉ですが、肺結核を病んで体格良くないし、体力無いし。
自らの手で人を絞め殺したり、格闘したこともなさそうだし。全て「○○地区を封鎖しろ」「連中を一網打尽にしろ」「始末しろ」のたった一言で、多くの人命を奪ったに違いなく。
乱世に生き、特務機関でのし上がり、たまたま生殺与奪の権を握れたことを除けば、
世が世なら、小官僚で唯々諾々と定年まで勤め上げたかなぁ…?
トニー〜〜〜。ほんとに、一体どんな役作りをする気なんですかぁぁぁぁぁぁ?
1901年(1903年説も有り)生まれの丁默邨は、別名を勒生、時政、竹倩とも言いました。
あの毛沢東(丁默邨より8歳上)や劉少奇(3歳上)、現在の中国国歌「義勇軍行進曲」を作詞した劇作家・詩人・映画人の田漢(3歳上)などを出した中国湖南省。その西北にあたる、常徳市の出身で、城区大高山街の裁縫と表装画店の家に生まれ育ちます。ということは、実家はあまり裕福ではなかったようです。
幼い頃は常徳湖南第二師範学校付属小学校に学びますが、1919年(民国8年、大正8年)の「五・四運動」と呼ばれた学生中心の抗日運動の影響で、社会主義革命の気運はこの村の若者にも浸透していました。丁默邨も例外ではなく、若い彼は「常徳学生総合会」に参加し、家業を継ぐよりも、学問を続け地元で教育に携わるよりも、革命に身を投じることを決意したのでした。
そして常徳湖南第二師範学校を卒業後、勇躍上海に向かいます。中国共産党が第1回設立会議を上海・フランス租界で開いた1921年(民国10年、大正10年)の秋のことでした。
ちなみに同郷の先輩の毛沢東は、湖南省立第四師範学校を卒業し、恩師を頼って北京に向かっています。丁默邨も同郷の恩師や先輩、知人を頼ったのでしょうか?
●上海での挫折、そして特務機関へ
憧れの大都会・上海。20歳の丁默邨は、知人の紹介で、中国社会主義青年団(略して「青年団」、後に中国共産主義青年団、略して「共青団」となる)に加わるのでした。
ところが翌春、彼は青年団の命令で故郷の湖南省に戻り、地元に団員を増やすことに専念せざるを得なかったのです。これが第一の挫折でした。
しかし彼は、故郷に骨を埋めて一生を終えるつもりはありませんでした。1923年(民国12年、大正12年)初頭、彼は常徳で社会主義青年団を創設し、自ら組長となります。10月には選挙により、22歳にして常徳地方執行委員会の書記に任命されるのでした。
ところが、若い彼には人望がなかったのか、人をまとめる才能が足りなかったのか、協調性の問題か、どうしても上海に行きたかったのか、翌年4月には別の者が書記を務めることになり、丁默邨は故郷を離れて再び上海に向かうのでした。
彼は上海で、知人と江南学院という学校を創立、副院長に納まります。そして1924年(民国13年、大正13年)、上海で、彼はついに中国国民党への加入を許されたのでした。ということは、今まで所属していた、共産党系の青年団とはど、ど、どう…?
この年、丁默邨よりも18歳上の汪兆銘は、すでに国民党中央委員・宣伝部長に選出されていました。
1925年3月、孫文が「革命いまだ成功せず」と遺言して北京で死去すると、汪兆銘が政治上の領袖となって共産党との共同政策を継続し、蒋介石が軍部を掌握します。12時間労働と低賃金に苦しんでいた日系紡績工場の中国人労働者は、共産党員の煽動もあって大規模ストライキやサボタージュ戦術に出ます。これが各地に広がり、5月30日には上海で学生や労働者と上海警察の衝突「五・三〇事件」が起こります。翌1926年(大正15年)、25歳の丁默邨は広州に派遣され、国民党中央組織部調査科(「中統」、CC団とも呼ばれた)の仕事を任されました。これが、彼が秘密工作・スパイ活動に手を染めるきっかけとなったのでした。
調査科では当時、北洋軍閥を内偵対象としていました。中統の創始者で課長のチェン・リーフー陳立夫は、年若い部下の丁黙邨に、上海の蜂起(帰順)を扇動する北洋軍閥の3隻の軍艦に行って、武装蜂起の可能性を調査するように命じました。出発前に、陳は彼に「自信があるか」と聞いたといいます。そのとき、丁はこうきっぱりと言ったのでした。「(私の)自信は北閥軍の手中にあります。もしも私が成功すれば武装蜂起することが判明するし、不成功なら、少なくともその中立を利用することができます」。陳はその度胸と言葉に深く感じ入り、すぐ彼のために"特派団員"の委任状を書いたといいます。丁黙邨らCC団の活躍もあってか、蒋介石は10万の大軍を率いて軍閥掃討に成功するのでした。
このCC団で、丁默邨は周佛海という4歳年上の先輩と親しくなります。この先輩もまた、湖南省(阮凌)の出身でした。また日本の第七高等学校と京都大学経済学部を卒業していて日本事情にも詳しい人物でした。丁默邨が大きな影響を受けたことは間違いありません。
犬養健氏は、のちにこう周佛海のことを書き残します。
「周佛海に会っていると、私には外国人の傍らにいるという感じが起こらない。昔から湖南省の人間の気質は日本人のそれに似ていると言われているが、周はその典型的なものである。大体中国の大官になると多少とも体裁をつくろうヒトが多いが、周は私だから気を許していた故もあろうが、子供のように感情むき出しであった。(中略)周佛海は背が高く、眼が円(つぶ)らで、なかなか感じのいい大官だが、書生っぽうという印象の方が強く、いつも身なりは構わず、長衫の袖ぐちなんぞ、しばしば汚れっぱなしになっていた。」(「揚子江は今も流れている」)ううむ、nancixにはチョウ・ユンファ周潤發兄貴っぽい感じに思える…。ユンファ兄貴は広東人だけど…。
1927年(民国18年、昭和2年)上海では共産党の周恩来らの指導により、中国初の議会制権力である上海臨時特別市政府が樹立されていました。この年4月、蒋介石は4・12クーデター(国民党は清黨と称し、共産党は四・一二反革命政変と称する)を起こします。
この日未明、上海の暗黒街を牛耳る杜月笙の青幇・紅幇などのマフィア組織の連中が、一斉に共産党が創設した労働者団体の上海総工会や労働者糾察隊(約3000人規模の自警団)を襲います。これをきっかけに、 蒋介石の命を受けた戒厳総司令の白崇禧(はく・すうき、台湾作家のバイ・シェンヨン白先勇の父)が率いる軍隊が市内に進出して糾察隊を武装解除し、抵抗する者を容赦なく射殺したといいます。糾察隊を指揮していた周恩来は、かろうじて脱出。それから3日間、上海の街は血の海と化したのでした。20万人の抗議デモ隊には容赦なく機銃掃射が浴びせられ、市内のいたるところで共産党員、革命的労働者が逮捕、銃殺されました。CC団創始者の陳立夫もこのクーデターの準備に加わっていたのですから、その部下である丁默邨がどんな形であれ、関わらないはずはありませんでした。
こうして蒋介石は国民党及び政府の実権を掌握し、10月には武漢国民政府に対して南京国民政府を樹立、共産党排撃を宣言するのです。また孫文未亡人の妹である宋美玲と結婚し、財閥の宋家とつながりを得るのでした。
続く。