2006年09月01日

ヒロインの原型、鄭蘋如の生涯(1)

 西木正明氏のノンフィクション・ノベル「夢顔さんによろしく 最後の貴公子・近衛文隆の生涯」、文庫版を、無事読み終えました。
夢顔さんによろしく 上―最後の貴公子・近衛文隆の生涯   文春文庫 に 9-3
 まったくもう、こういう作品こそ日本で映画にしなきゃ、いや日中共同制作映画にしなきゃ、日本人がカンヌ国際映画祭に打って出たり、アカデミー賞外国語映画部門を狙ったりできないじゃないのー。
 問題は、公爵さまの御曹司でありながら身長179cm、体重81kgの壮健な体格(30歳当時)に恵まれ、学習院小中等科を経て米国プリンストン大学に進学し、ゴルフはアマチュアながら世界レベルの腕前、なんて文武両道に優れた偉丈夫を演じられる日本の若手男優が、いないことだよなあ。みんなジュノンだのメンズクラブだのメンズノンノだの、ファッションモデルにふさわしい線の細い二枚目なんだもんなあ。東海大ハワイ校に進学した、身長185cmの今をときめく坂口憲二だって、華族さまとしての品が…。といってそれではと、歌舞伎俳優の御曹司を探してみると…身長176cmの第11代目市川海老蔵ぐらい?
 
 いやいやいや、小説のドラマ化を考えてる場合じゃなかったですよね。
 この小説中盤のヒロインにして、トニー・レオン主演映画「色、戒」のヒロインのモデルともなった鄭蘋如(日本語読みてい・ひんにょ、中国語読みテン・ピンルー)について、考察するんでした。
 中華各サイトでも鄭蘋如について検索して、調べてみましたよー。
 「夢顔さんによろしく 最後の貴公子・近衛文隆の生涯」(以下、「夢顔さん〜」と表記)での、彼女の登場シーンは次のように描写されています。
 「(前略)部屋の中央に置かれた質素なソファに座っていた女性が、ふわり、という感じで立ち上がった。
 その女性と視線があったとたんに、文隆の顔色が変わった。
 年の頃は二十歳前後。顔は小さな卵形。広い額の下に、きれいに弓形を描いた眉毛と、目尻がわずかにつり上がった大きな二重まぶたの目があった。瞳の色は淡い茶色。
 長めの髪の毛を、無造作に軽く後頭部で束ね、肩まで垂らしている。藤色のチャイナドレスは、膝の少し上までスリットが入った、控えめな物。それが、この女性には恐ろしいほど良く似合っていた。
 彼女は文隆の視線を真正面から受け止め、かすかにほほえんだ。右の頬に、小さな笑窪が出来た。背は高く、白いハイヒールを差し引いても、五尺三寸は優にある。バレリーナのように贅肉のない身体の持ち主であることが、見事なドレスのラインから想像できた。
 文隆は唖然として声を失ったまま、目の前に立っている見事な生き物を見つめ続けた。(後略)」
 初対面の舞台は上海の東亜同文書院。1939年(昭和14年)3月10日のことでした。
 このとき、近衛文隆24歳、鄭蘋如は21歳でした。蒋介石を支持していた鄭蘋如の家族は、すでに重慶に移り住んでいました。
鄭蘋如
 中華サイトが紹介している、鄭蘋如の画像です。
 ベテラン女優の香川京子さんの若い頃に、少し似ているでしょうか?
 西木正明氏も、この写真を元に、小説の中での鄭蘋如の容貌を描写したのではないでしょうか。

 鄭蘋如のご先祖様の出身地は中国浙江省・慈渓市。彼女は1918年生まれでした。
 父親の鄭越原(又の名を英伯、「夢顔さん〜」では鄭鉞てい・えつ)は、若い頃には汪精衛と同じく日本の法政大学(「夢顔さん〜」によると、近衛文麿公が通学していた頃の東京帝国大学)に留学し、学士号を獲得。同時に、当時は日本に二度目の亡命をしていた孫文の革命活動に参加して秘書的立場で奔走、1905年に東京で結成された中国革命同盟会に加入していたのです。後の中国国民党の元老の一人ともいえます。
 鄭越原は日本に滞在中に、日本の名門士族の令嬢・木村花子(あのー、いかにも偽名なんですが…)と出会います。花子は孫文の影響で中国革命に深い共感と理解を寄せていて、二人は周囲の反対を押し切って結婚、花子は鄭華君と改名さえしたのでした。
 やがて中国に戻った鄭越原と花子の間には、2人の息子と3人の娘が生まれました。蘋如は二女で、子供の頃から聡明で理解力に優れ、母に習った日本語はとても流暢なものでした。父・鄭越原は上海の復旦大学の教授となり、やがて江蘇省(省都は南京市)の高等法院第二分院主席検察官(日本でいう検事)に任命されます。

 鄭蘋如が上海の民光中学(1932年9月〜1933年11月、もしくは明光中学か)に進学したとき、その中学の校長を務めていたのが、1901年(1903年説もあり)生まれ、31歳の丁黙邨という男でした。彼は聡明、利発な美少女の鄭蘋如を見込み、当時から個人的に補習を施すなど目をかけていたようです。しかし一方では、中学時代の鄭蘋如は美少女な上に母親が日本人ということもあって学内でいじめを受け、嫌気がさして学校をさぼり、ダンスホールに入り浸った、そこで抗日組織の人々と縁ができた…という説もあるそうです。ダンスホールで遊んでいたために学業がおろそかになり、だから校長直々の補習が必要だったんでしょうか?

 彼女の美貌としなやかな肢体は上海では評判で、国内で最も有名で影響力のあったグラフィックマガジン「良友画報」1937年7月130期号の表紙を飾ったこともあるほどです。ただし彼女の身分が特殊であったため、写真説明には「鄭女士」としか書かれず、氏名を全て明かすことはありませんでした。
鄭蘋如が飾った「良友画報」表紙

 中国で抗日の気運が高まると、19歳の鄭蘋如はためらいなく抗日運動に身を投じます。1937年11月の、大日本帝国軍による上海陥落後も、鄭一家は母親が日本人であるということで上海に留まることを許されました。父は租界特区法官主席検察官となりますが、戦火が激しくなりやむなく重慶に逃れることになるのでした。鄭蘋如だけが上海に残り、良家の子女であり卓越した日本語能力を持っているという好条件を生かして、重慶側の蒋介石政権下の秘密警察、諜報工作を専門とする「軍事委員会調査統計局(軍統)」(「夢顔さん〜」によると構成員は藍色の制服を着ているので別称・藍衣社というテロ組織)に加わり、抗日地下工作に従事します。

 彼女は最も優秀な情報員となり、母親の人脈を生かして日本の高級官僚に接近します。日本の当時の前首相、近衛文麿公爵が上海に派遣した人物(中華サイトには早水親重とありますが?)と知己を得て、彼の紹介で1938年秋に近衛の長男、文隆とも知り合ったのでした。(「夢顔さん〜」によると、ナイトクラブのホステスで藍衣社の一員でもあった張偉珠の紹介で、1939年3月に初対面)。
 文隆は鄭蘋如に一目惚れし、勤務先の東亜同文書院の大運動会に自分の婚約者として彼女を招待するほど、堂々と交際を続けたのでした。
 「もしも近衛文隆を掌握すれば、父親である近衛前首相に日中停戦を交渉することもできるだろうか?」彼女はそう考えていました。また、英国政府の手を借りて、近衛文隆を重慶に極秘裏に送り込み、蒋介石と密かに対面・直接交渉させることができれば、日中和平への道が開けるとも読んでいたのです。しかし軍統の上層部は彼女に、この危険な恋愛遊戯を中止するように命令します。また日本の憲兵隊も近衛文隆が蒋介石の手先の女に籠絡され、あくまで親日派の汪精衛だけを相手取ろうとする軍部の意向を無視して、独断で反日派の蒋介石に接近していると受け取り、文隆を厳重に監視していたのでした。
  1939年6月4日の「駆け落ち未遂」事件の直後、近衛文隆は日本に連れ戻され、鄭蘋如の真意を知らないまま、政治的人質にされる運命を逃れることができたのでした。しかし大日本帝国軍部に危険人物とみなされた彼は、すぐに召集令状によって満州に派遣されることになるのです。

 近衛文隆と引き裂かれた鄭蘋如はその後も、日本の傀儡として成立してしまった汪精衛政権に関する情報を集め続けます。汪精衛が重慶を離れてベトナムのハノイに脱出すると、今度は汪精衛の片腕となって活躍中の国民党中央軍事委員少将参謀の丁黙邨を制裁する重要任務が、昔の教え子であった鄭蘋如に下されました。
 汪精衛政権は当時、日本陸軍憲兵隊の資金と武器援助を受けて、上海のジェスフィールド76号(極司菲爾路、現在の万航渡路435号)に特工総部(特務工作総部、いわば秘密警察)を設けていました。「夢顔さんによろしく〜」によると、重慶側の人間を捕え、拷問して情報を収集し、必要があれば処刑するための機関だったのです。まさに「泣く子も黙る」と言われた、魔窟です。
 やはり冷酷な弾圧者として恐れられた李士群と共に、特工総部を統括していた主任が丁黙邨であり、本来は軍統の第三處處長だった彼は、第二處長との権力争いに敗れたことを恨んで汪精衛側に寝返ったとされています。彼の裏切りと特工総部での地位を笠に着ての徹底的な弾圧は、「軍統」などの蒋介石寄りの革命組織に致命的な打撃を与えていました。「軍統」上海潜伏組織の責任者は、丁の好色という弱点を突いて彼を暗殺する決意をするのです。
 当時の丁黙邨は肺結核を病んでいましたが、好色なのは相変わらずでした。1939年春、38歳になっていた彼は元教え子の鄭蘋如が、見事な美女に成長して「自首」し、「もう(蒋介石の)重慶政府を見限った、仲間に加わりたい」と申し出てきたことに鼻の下を長くして喜びます。鄭蘋如は純情な少女として振る舞い、彼を虜にしたのでした。やがて丁は蘋如を自分の"秘書"として、身近に置くことを決定しました。彼女は首尾よく、ジェスフィールド76号の特工総部に自由に出入りできる身分となったのです。

 鄭蘋如が彼を自宅に招いたとき、「軍統」は鄭蘋如の家の周囲に狙撃要員を配置します。しかし危険を察知したのか、丁は猛スピードで車を走らせ、車を降りることなくそのまま去ってしまったのでした。この時の狙撃計画は、完全な失敗に終わりました。
 この直後、軍統上海区責任者は張瑞京という人物に替わります。彼は第二の暗殺計画を立てます。彼は鄭蘋如に「寒いので、毛皮のコートを買いたい」と丁にねだらせます。そして静安寺路の「シベリア毛皮店」前に丁と共に向かわせます。ところが丁はうすうす罠であることを見抜いていて、事前に張瑞京らを逮捕させ特工総部に連行していたのでした。
 1939年12月21日、すでに暗殺計画の全貌を掴んでいた丁黙邨は、滬西の友人宅での昼食に鄭蘋如を電話で誘っていました。何も知らない彼女は丁に付き従い、食後にシベリア毛皮店前に車で向かいます。彼女は突然「今日は寒いわ。今夜のパーティーに出席するための、毛皮のコートを買いたい」とねだり、二人は車を下り店に入りました。鄭蘋如が1着のロングコートを選び、鏡の前で試着します。丁がコートのポケットから札束を出そうとしたそのとき…。

 後半に…続く。
posted by nancix at 23:03 | Comment(0) | TrackBack(1) | 「色、戒」特集
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