珍しく、アジア映画以外で初日に、しかも前売り券購入で駆けつけてしまった。アン・リー李安監督の「斷背山」、じゃなくて「ブロークバック・マウンテン」です。
シネリーブル神戸の午後3時40分の回は、ほぼ満席でした。
早めに前売り券を引き換えに行ったのに、整理券番号70番だったもんなあ。
幸い、先に入った皆さんが後ろの方の席を選んだので、前から3列目の真ん中あたりで人の頭を気にせず見られました。
ほとんどが女性客でしたが、ちらほらと男性の姿も。
のっぽで痩せ型の、白人男性もバックパック片手に、一人で見に来ていました。
観光客かなあ?
しみじみと、よい映画だと思いました。
アン・リー作品らしく、何よりも"家族"を描き、"家族"を巡って物語る、佳作でした。
"家族"になりたくても、20年かけてもなれなかった2人。
どうしようもなく無口で内向的で、とはいえ人一倍激しい思いをひた隠しに隠している、牧童としてしか生きられない不器用な、イニス。
本来は陽気で奔放で生命力に溢れている
マッチョであろう、逞しく強い家父長であろうと努め、子どもたちも雄々しくあれと育て、結果的に息子たちに精神的外傷(トラウマ)を与えただけの、父2人。その影が、物語全体に投げかけられています。
せっかく"家族"になれたのに、夫の秘密の生活のせいで、心の平安が得られず満たされず、空しく老いて変貌していく、妻2人。
父の無条件の受け入れ=愛を求めているのに、言を左右にして芯のところでやんわりと拒絶される娘の、淋しさ。
ほんとに、単なる、同性愛者のすったもんだ、を描いているだけじゃないんです。
それだけは、解って欲しい。
女房子どもとの日常的なぐだぐだに疲れ、心を打ち明けられる釣り友達や飲み友達やゲーム仲間、2ちゃんねるナカーマ?と共に現実逃避したいと願う亭主族なら、主人公の行動だって、ある程度は理解できるはずです。
子どもの夜泣きに腹を立て、妻に八つ当たりした経験のある夫なら、
共働きで、休日出勤を命じられ、宝物のはずの子どもたちを押し付けあった夫婦なら、
この映画には身につまされるというものです。
舅の横暴に頭が上がらない婿養子なら、あるいは裕福な家庭に育った妻をめとった男なら、まだリモコンがついていなかった時代のテレビの、食事中に損聴すべきかどうかのいさかいのけりのつけ方に、心密かに喝采を送るはずです。
そういった、日常のディテールを描かせたら、アン・リーは天下一品。安心して、映画の時の流れに134分の間、身を任せることができました。
原作者のアニー・プルーは、おお、なんと「シッピング・ニュース」(01)の原作者でもあったか。(映画版は見てないのだけど)
面白いというレベルの小説ではなかったけれど、細部まで呆れるほど事細かにきっちり描きつつ、決して美男美女ではない人物像を、その思いを、関係性を生き生きと描き出していく筆致には、感心させられたなあ。
「ブロークバック・マウンテン」のノヴェライズも、買って帰りましたよ。
映画版の始まりは、よくあるロード・ムービーのように、幾遜にも連なる山の稜線と道路と、明け方の光のなかをひた走るトラックのヘッドライトから。
やがて画面に現れる、ブルージーンズがまぶしい2人の青年は、なかなか口を利こうとしません。
観客は、どっちがイニスでどっちがジャックか、すら解らない。
こんな寡黙な主人公、ヴィム・ヴェンダース映画でもない限り、ありえない…。ハリウッド映画にあるまじき、寡黙さなのです。
もどかしいほどの時間を経て、やっと牧場労働者の手配師のアギーレが事務所(トレーラーハウスみたいな)の鍵を開け、「仕事が欲しかったらさっさと入れ」とぶっきら棒に言い放つ。
どうでもいいけど、アギーレという名前が登場するたび(アギーレ・神の怒り)と呟きたくなる、半可通のnancixなのであった。
いや実際、彼の煮えたぎる怒りによって、その後イニスとジャックは4年もの音信不通に、耐えねばならなくなるのだけど。
何気ないふりして別れた後、咳き込むどころか嘔吐まで誘うほど嗚咽する、イニスの姿が切ないです。
同性愛への罪悪感から嘔吐するんじゃないです。別離の悲しみのあまり呼吸すらままならなくなって、吐きそうになるんです。
経験者は、語る。(嗚咽から嘔吐に至る経験者、という意味)
時々(どうせ結婚しても、子どもができて数年したらセクスレスになるのなら、老後を共に過ごすライフ・パートナーは異性ではなく同性の方が気楽じゃないかなあ。それなら濡れ落ち葉と化すかもしれない亭主は、邪魔)と思ったりして来たnancixには、イニスとジャックがお互いを必要とする気持ち、解らないでもない。
まして、彼らの絆には、人間社会のしがらみから逃れられる、大自然の中で自由を謳歌することの魅力が、分かち難く結びついている。
以前、確か都会生活に疲れきった3人の中年男が、カウボーイの真似事に挑むことで、自分らしさを取り戻していくという映画があった気がする。
もしも、イニスとジャックの間に性愛が介在しなければ、同じように、キャンプ好き&現実逃避の仲間、というだけで済んだんだけど。
常々、同性との間の友情や共感が、いったいどこの時点で何をきっかけに堰を切って性愛に変わってしまうのだ?と首をひねっていたノンケのnancixには、ジャックの誘惑と、イニスの衝動が、少なからずショックであり、目からウロコが落ちる思いでした。
帰り道であっという間に読めたノヴェライズ(活字がやたら大きいぞ)では、凍えるテント内で、ジャックがイニスの手をつかんで自分の股間に誘った時に、イニスは「なめるんじゃねえぞと思った」、とありました。
それで、何となく「ブエノスアイレス」で、冒頭のファイ(トニー)が、憤懣を感じているとしか思えない表情をウィン(レスリー)に対して垣間見せた理由が、少し解ったような気がした。
(てめえに好き勝手に主導権を握られてたまるか、俺だってヤるときゃヤるんだー!)って、感じ?
男って、男って……。
同性愛だろうと異性愛だろうと、そんなに肩肘張って、突っ張って生きなきゃいけないものなの?
それにしても、イニスってば、そんなに激しく、前歯を折る勢いで頭突きみたいに噛み付くように接吻しなくったって……(泣き笑い)。
あああ、そのキッスのやり方って、デジャブー(既損感)が。
「いますぐ抱きしめたい」のアンディとか、レスリーのキスシーンとか…。
若い頃、欧米映画のLDで研究しまくっていたとカリーナが証言するトニーのキッスは、もっと優しくて甘くて、息詰まるくらい切ないんだけど。
あと、多分イニスはその夜まで童○だったんだと思うけど、いきなりそんな…攻受がすぐに決まるものなのか……リバースも可なのか…?(@_@)
目からウロコ、じゃなくて目に5枚くらいウロコを重ね入れ。
以前、多分やおい小説ではなかったと思うんだけど、「男と男なら、おっぱいという邪魔無しに、抱擁でぴったりと体と体を密着して一体になれるだろ? だからいいんだよ」みたいなセリフを読んだことがある。
どんな激しく求め合う性愛シーンよりも、深い余韻を残すのが、焚き火の前に佇むジャックを背後からイニスが抱きしめ、赤ん坊をあやすかのようにゆっくりと体を揺らし、陶酔して目を閉じたジャックの耳元に「おいおい、馬みたいに立ったまま寝るんだな」と囁くシーンだった。
まさに、背中と胸をぴったりとくっつけて、一体化した二人。
原作小説だと、もっともっと、そのシーンの意味が重要だったこと、時系列を無視してまでもその時点で挿入されたかが、明確になる。
「彼」が、相手の父母の元を訪ねるシーンも、小説と映画では少しニュアンスが異なる。訳し方の違いに過ぎないのだろうか?
小説では、堅苦しい老父は「あいつはきっと、自分は特別な人間だから、先祖代々の墓には入れないとでも思っていたんだろうな」と皮肉り、「彼」の帰り際に「いいかね、うちにはちゃんと先祖代々の墓がある。○○もそこに入るんだ」と遺灰を手放すことを冷たく拒む。母も「また来てちょうだいね」と口で言うだけ。
映画では、父は「家族の墓には埋めてやらん」と言い、「彼」が去るときになって「やはり埋めてやろうと思う(ので、遺灰は分けない)」と言った気がした。そのニュアンスはずっと優しい。母も、「彼」が遺品を持って降りて来たことに無言のうちに気づき、それを入れる紙袋をすっと差し出す。その紙袋のくだりについては、パンフP53の川口敦子さんの洞察が秀逸。そこまで深読みできなかった…。
深読みといえば、「彼」が相手の事故死を妻に知らされた時に思い浮かべる映像は、てっきり恐怖症気味の「彼」の、単なる妄想だと思っていた。
原作でもどちらが真実なのか、わからないようにぼかしてある。でも、世間的にはゲイ・バッシングの犠牲あるいはピエル・パオロ・パゾリーニ監督の死のような殴打事件があったという結論に、もはやなっているわけですね…?
そして、ラストに、ある人物が呟くセリフ。
「○○、I swear」……。
日本語字幕では「永遠に愛している」だかになっていたけど、パンフレット(シネマライズシリーズで、充実していて、「買い」です! でも上映前に全部読まないように…)では「誓うよ」と訳されている。原作小説でも、「俺は誓う…」という意味に訳されている。
「swear」は、辞書だと〜と断言する、誓って言う、誓うという意味。
でも、何を誓うって?
いろんな意味に取れる。
愛し合ったことを忘れないと、誓う?
君の存在を忘れないと、誓う?
二人の秘密を墓場まで持って行く、決して誰にもばらさないで君の名誉を守ると、誓う?
君の思い出をこのクローゼットに封じ込めているという秘密を、誰にも言わずに守り通すと、誓う?
少年合唱団もののディズニー映画「青きドナウ」(小学校での上映会で見たはず)から始まって「アナザー・カントリー」「モーリス」「ディア・ハンター」「真夜中のカーボーイ」「さらば、わが愛〜覇王別姫」「ブエノスアイレス」「藍宇〜情熱の嵐」などなどを見てきたけど、
大抵は愛し合う二人のうち、一方の死でドラマは幕を閉じ、愛は永遠のものとなる。池澤夏樹の父上である福永武彦の小説「草の花」もしかり。若くして死んだ兄に、生きている妹は到底かなわない。
そりゃそうだ、若くて美しいままの面影を残して、相手に時を止められてしまえば、老残の身の哀れさ、やつれ衰えてしまう惨めさは、見なくて済む。想いは永遠のものに昇華し、決して変質することはない。
「ブエノスアイレス」では、王家衛は片方の死を描く誘惑にいったんは負けながら、結局はどちらも死なせはしなかった。それはある意味、画期的でもあったんだよスクリーン・インターナショナルのリー・マーシャルってば!!! 「エモーショナルな関心やインパクトからは外れた」って、意味わかんないよぉ。
愛は変質しようとも、ファイとウィンの二人は別々に、生を全うする。
それがどんなに惨めであっても、無残であっても。
失われた愛の日々の記憶だけを反すうしつつ、
「会いたくなったら、いつでも会える」と自分に言い聞かせながら。
どのみち、失われた永遠の愛の秘密を守るために時代遅れの牧童生活を続け、貧しさに耐えて孤閨を守る「彼」と、幸せ度においては変わりないような気がするのだ。
思い出の中の二人の姿は、時を経れば経るほど、美しくはかない神聖なるものに変わっていくに決まっているのだから。
エンディングと公式サイトのBGMに使用されている「He was A friend of mine」は、ボブ糟ディラン作詞作曲、ウィリー・ネルソンが歌う。
歌詞の内容があまりにもぴったりで、原作者アニー・プルーはこの曲に着想を得て、この短編小説を書き下ろしたのではないかと疑うくらい。
ウィリー・ネルソンといえば、トニー・レオン主演「裏街の聖者」で、挿入歌としてリー・チーガイ李志毅監督が歌った「Crazy」をそもそもヒットさせた名カントリー歌手であります。テレビで見た9.11後のチャリティーコンサートでは、あまりの老けぶりに言葉を失くしたけど、また歌声が聴けて、とても嬉しかった。
映画を見終わって帰宅して夕食を食べ、新聞を見たら、げっ今日が米国アカデミー賞授賞式の総集編放送の日だったのね!と焦ってNHK BS2にチャンネルを変えた。もう後半部分でしたよ。
でも撮影監督のロドリゴ・プリエト、脚本のダイアナ・オサナ&ラリー・マクマトリー、そしてもちろんアン・リー監督のスピーチが聞けて、とても幸運でした。
イニス役のヒース糟レジャーはヒゲを生やして幾分ふくよかになり、映画のイメージとかなり違ってました。さすがは役者だ。次回作は「カサノバ」……?
映画館内に「カサノバ」ポスターを貼ってあったけど…イニスのイメージが…ちょっと、当分、見たくないかも……すいませんm(__)m
なお、キャスト・スタッフ・使用曲目のテロップの最後のほうに、
「シェン・リーに捧ぐ」
という一文が現れますから、お見逃しなく。
この映画が完成する前に亡くなった、アン・リーのお父上ですね。厳しい学校教師で、アン・リーがすっかり映画監督として地位を築き上げてからも、帰省するたびに「で、おまえはいつ、まっとうな職に就く気だね?」と聞き続けていたという…(泣き笑い)。



観られたのですねー。実はけっこーハマッてしまいまして。軽くヤバイです。
李安監督はちょっと前のインタビューで、『グリーンデスティニー』と『ハルク』の大作2連ちゃんで疲れてしまい、もうやめようかなあとおとうさんに愚痴ったところ、「おまえに映画をつくる以外の何ができるんだ?」と問われたと話してました。監督はそのときは答える言葉がみつからなかったそうですが、その後落ちこんだりしたときにはこのおとうさんの発言を思い出すそうです。
毎回父子の確執をテーマに映画をつくってる李安らしいエピソードですねー。
聞いた話ですが、映画の台詞はかなり原作に忠実だそうで、トーンに微妙な差があるのは訳し方の問題だと思います。聞いててもところどころ意訳しすぎでは?と思われる箇所もあり(しかしイニスの喋り方は聞き取りにくし)。
また台詞が非常に少ないので、英語圏でも「どこそこのシーンのこれこれの台詞は結局どういう意味?」みたいな激しい議論になってるらしーです。
私も今日、前から2列目真ん中で観て来ました。
ひとり、嗚咽寸前の号泣してしまいました。
こうしている今も、涙が表面張力になっています。
愛の謎は解けましたか?
とりあえず今日のところは謎解きはやめて、愛の余韻に浸りたいと思います。
ではまた・・・。
(そして、きっと、nancixさんファンです)
'I swear.'のシーン、私には、彼らの結婚式に見えました。
絵葉書と、
ブロークバックマウンテン最後の日の二人のシャツと・・・
クローゼットの扉の内側が、彼らの教会なのかと思ったのですが。
ノヴェライズの「なめるんじゃねえぞと思った」箇所ですが、翻訳者の米塚真治さんがWEB上で訳を訂正されています。
それによると、少し違った解釈になるようです。
勝手にリンクを貼るのは止めておきますので、もしよければ翻訳者名で検索してみて下さいね。
映画と原作を比べると、やはり映画のほうが繊細な感じを受けますね。アン・リーの作風でしょうか。
私は原書ペーパーバック版も入手しました。ゆっくり読もうと思います(早くは読めませんし、笑)。
ではまたです。
周りにこの映画を観た人がいないので一人悶々としていたのですが、やっとここを思い出し(遅っ)ナンシーさんの文章や皆さんのコメントを読み、そうそう、そうなんだよねと嬉し泣きしています。 疑問な部分もナンシーさんとほぼ同じ。
あーパンフレット買ってくれば良かった! 原作買って読もう! DVDは必ず買うけど、もう1回でかい画面であの美しい景色と焚き火の傍での子守唄抱っこのシーンが観たいぞー